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大人のプラモデル説 ~私がクラシック音楽作品をマンドリン編曲する理由 [編曲]

フランク「ヴァイオリンソナタ」、マーラー「花の章」、ワーグナー「ジークフリート牧歌」、ラヴェル「古風なメヌエット」、セヴラック「休暇の日々から第1集」、そしてシューマン「交響曲第4番」等々。私がマンドリン合奏用に編曲した作品も、細かく数えれば100曲超となりました。

マンドリン愛好家の方々は、哀愁を帯びた音色、全員fの迫力あるトレモロが大好きという方も多いのですが、普段オーケストラやピアノなどを聴かれている方からすると、マンドリンは、キンキン、ペンペン、じゃみじゃみとびっくりするほど不自然で、ノイジーで、攻撃的だという印象です。1時間も聴かされると飽きてしまうし、マンドリンって何を聴いてもみんな同じに聴こえる、音量や早弾きなど機能的に不可能なのに無理して痛々しいと思われる方も多いと思います。だからこそ、マンドリンはオリジナルに限る、クラシック作品の編曲などは邪道だ、といった批判も昔からあって、そのたびに私は残念な気持ちになっていました。

マンドリンオーケストラは、純粋に音響や機能性を考えると、扱いにくいことは確かです。楽器の種類が少なく、またどの楽器も発音方法が同じなので基本的には同じトーンとなります。一人一人の音色が独立して聴こえがちで、あまり音が溶けて混じるという感覚がなく、合唱のように和声をはめる、響きを一つにしていくということが苦手です。ということは、複数の旋律が分離しにくく、油絵のような鮮やかなコントラストや写実的な表現にはならない、せいぜいせいぜいパステルの素描画や水墨画のようなトーン(線が重なりあうモアレ模様だと表現する方もいます)が精一杯ではないか、だからこそオーケストラ編曲なんてやるべきではないし、たとえ演奏しても期待はずれでがっかりするだけだと思われてしまっています。

ザラザラしてちっとも写実的ではない、音楽を表現するには不自由なメディアなんだ、確かにそうなのかもしれません。でもだからこそ、私は何かの本質に迫れるような気がしています。本物の良いところをデフォルメできる魅力、本物よりも本物らしいことができる魅力、そんなことがマンドリンオーケストラにあるのではないかと思うのです。そして、演奏者からすれば、あるときはオーボエの音色を意識し、あるときは一弓のヴァイオリンのロングトーンとなり、またあるときは打楽器のようなノイズを模倣する。そんな一人何役もこなし、瞬時に場面を切り替える、そんな「美味しい」部分を一つの曲の中で何度も体験することができるメディアなのです。

マンドリン合奏=大人のプラモデル説。モデルだからこそ、作品の本質部分を取捨選択せざるをえないし、それをデフォルメできる。その自由さがたまらないのです。モデルだからこそ、弾くほうも聴く方も、想像力を掻き立てられるのです。もしかすると、、、って思える楽しみ、これこそがマンドリン合奏の最大の魅力であり、私がクラシック音楽作品を編曲し続ける理由なのです。本日の演奏が、みなさんの想像力を掻き立てるものであることを願っています。

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